つきよみ。

月に一度読書記録を書きます。

おとぎ話のような - 12月の読書記録

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新年明けましておめでとうございます。
昨年12月の読書記録。星は個人的な満足度で最大5つ。

 

 

①【醜いことは、罪ですか。】『オペラ座の怪人ガストン・ルルー 長島良三訳 角川文庫

☆☆☆ 

オペラ座の怪人 (角川文庫)

オペラ座の怪人 (角川文庫)

 

1909年発表の原作。1986年にアンドリュー・ロイド・ウェバーがミュージカル化。 

 

1905年、パリ。世間を騒がせた事件の裏には、あの〈怪人〉がいた。

オペラ座の怪人〉は実在した。

情熱的に歌い上げられた悲劇の物語として、ミュージカルや映画を何度か観てきた。その、原作。証言や記録を織り交ぜて事件の真相を明らかにしていく過程には、想像していたものとは違った緊迫感があって。

 

ラブストーリー、悲劇である以前に、怪奇小説として、こんなにおもしろく興奮させるものであるとは、知らなかった。マジカルな出来事の種が明かされ、〈怪人〉の正体が、彼の過去が、明らかになっていく。この物語を美しいものにしているのは、

音楽には、心に響く音色のほかに、そとの世界にはなにも存在しないというような気分にさせる力があるのよ。(p. 216)

あまりに美しい、彼の〈声〉であり、

私の父親は一度も私の顔を見ようとしなかったし、生みの母親でさえ、二度と私の顔を見ないですむように、泣きながら最初の仮面をくれたというのに!(p. 227)


その曲を聴いていると、彼の生き地獄の暗い壁に哀れな醜い頭を激しくぶつけているエリックの姿、それから、人間たちを怖がらせないように、彼らの視線を避けてその地獄に逃げこむ彼の姿がまざまざと目に浮かんだ。(p. 229)

あまりに悲惨な、彼の過去であり、

彼はわたしの言葉を信じてしまったのよ。(p. 230)


彼女は、ありのままの私を愛しているんだから。(p. 360)

あまりに残酷な、彼の愛の行く末。

可哀想で不幸せなエリック! 彼をあわれむべきか? それとも呪うべきか? 彼はただ、人並みになりたいと思っていただけなのだ! だが、彼はあまりにも醜かった!

なぜ神は、あのように醜い人間を作ったのだろう?(p. 451)


フランケンシュタイン』、『美女と野獣』など、醜さと愛の葛藤を扱った作品は数多いけれど、終盤、ある男に向かって〈怪人〉が吐露する思いの切実さは他に類を見ない。ともすれば、愛に狂った醜い殺人鬼というレッテルが貼られかねない──実際自分本位に見える場面がかなり多いのだ──〈怪人〉に、心を寄せてしまう。泣きたくなってしまう。

 

「わたしのほうこそ、教えてほしいわ、ラウル。愛するっていうのは、そんなに苦しいことなの?」
「そうだよ、クリスティーヌ、愛していて、しかも、自分が愛されているかどうかわからないときはね」(p. 236)

〈怪人〉から恋人を守ろうとする青年ラウルは、愛されていると知らずに愛することは苦しいものだ、という。それもわかるのだが、〈怪人〉の愛の苦しみは、きっともっと深く、ずっと過酷だ。恋人を手放すことが愛であると知って、その愛のために自分の愛を諦めること。しかもそれが、彼にとってはこの上ない幸せになる。なぜって、それはこの世で初めて自分に愛を示してくれた人に、愛を返してあげることに他ならない行為だから。そのことがあまりに皮肉で、あまりにも切ない。 

 

 

②【凄惨な体験を、語り、描けますか。】『スローターハウス5カート・ヴォネガット・ジュニア 伊藤典夫訳 ハヤカワ文庫SF

☆☆☆☆

カート・ヴォネガットの代表作。彼自身の戦争体験に基づく。

 

「けいれん的時間旅行者」ビリー・ピルグリムは、過去と未来を行き来する。ドイツで捕虜になった青年時代、裕福に暮らす晩年、トラルファマドール星人に連れ去られたあの時。

 

聞きたまえ──

ビリー・ピルグリムは時間のなかに解き放たれた。(p. 39)

抜粋やら小さなエピソードやらが切り貼りのようにして語られる初めの章の、テンポの心地よさが不思議だった。村上春樹は『風の歌を聴け』でこれを目指したんだろうか。

 

時間を超越した存在であるトラルファマドール星人の「もののとらえ方」が印象的だった。

わたしはトラルファマドール星人だ。きみたちがロッキー山脈をながめるのと同じように、すべての時間を見ることができる。(p. 116)

4次元に生きる彼らは、すべての物事が過去現在未来問わず見えている。だから、こんなふうに死をとらえたりする。

過去では、その人はまだ生きているのだから、葬儀の場で泣くのは愚かしいことだ。あらゆる瞬間は、過去、現在、未来を問わず、常に存在してきたのだし、常に存在しつづけるのである。(p. 43)


死んだものは、この特定の瞬間には好ましからぬ状態にあるが、ほかの多くの瞬間には、良好な状態にあるのだ。(p. 44)

そこにあるのは、自由意志を排した、極端な運命論とでも呼ぶべきもの。

なぜ、わたしが?(p. 105)


そのわけは、この瞬間がたんにあるからだ。

われわれにしたって同じことさ、ピルグリムくん、この瞬間という琥珀に閉じこめられている。なぜというものはないのだ。(p. 106)

それは、ただあるのだ。(p. 117)

 

そしてこの物語には、戦争やら人生やらが、ユーモアまじりに描かれているようでいて、それでもなお隠すことのできない、戦争の凄惨さ、ままならなさがあった。

トラルファマドール星人に言わせれば、戦争は、

一部の地球人が、他の地球人をこの惑星上に住まわせておきたくないと考えたとき、彼らが他の地球人に対してしばしば用いるおそるべき人工気象(p. 144)

で。書き手の「わたし」にしてみれば、

この小説には、性格らしい性格を持つ人物はほとんど現れないし、劇的な対決も皆無に近い。というのは、ここに登場する人びとの大部分が病んでおり、また得体の知れぬ巨大な力に翻弄される無気力な人形にすぎないからである。いずれにせよ戦争とは、人びとから人間としての性格を奪うことなのだ。(p. 215)

としか思えなくて。 

ドレスデンの悲劇を、いかに描くべきか、ヴォネガットは悩んだろうと思う。ユーモアを交え、SFの要素を加えても、やはり悲劇は悲劇のまま。彼がトラルファマドール星人に与えた、すべての瞬間が「ただあるだけ」というものの見方と、地球人が生み出した戦争。考えあわせてみれば、そこには一定の救いがあるのかもしれない。人が死ぬ瞬間もあれば、笑って生きる瞬間もある。都市が焼け落ち荒廃する瞬間もあれば、祭りの興奮に湧く瞬間もある。「そういうものだ」という、諦めにも似た受け入れ。

 

  

③【あなたの人生は、だれのものですか。】『掏摸』中村文則 河出文庫

☆☆☆☆ 

掏摸(スリ) (河出文庫)

掏摸(スリ) (河出文庫)

 

第4回大江健三郎賞受賞作。

 

遠くには、いつも塔があった。(p. 7)

掏摸(すり)を生業とする男。遠くにいつも見える古い塔。

 

まず引き込まれるのは、一切の無駄を排した掏摸の描写。参考文献には数冊の掏摸に関する本が挙げられているが、息をするように掏摸をする主人公の緊張と解放に読み手の意識がぴたりと重なる。

息をゆっくり吸い、そのまま呼吸を止めた。財布の端を挟み、抜き取る。指先から肩へ震えが伝い、暖かな温度が、少しずつ体に広がるのを感じる。(p. 8)

そしていつまでも忘れられないインパクトを放つのが、木崎という強烈なキャラクター。裏社会の根っこをつかんでいるこの男は、他者の人生を支配することに快感を覚え、運命という形で人を支配する神と自らを重ねている。

運命ってのは、強者と弱者の関係に似てると思わんか?(p. 120)

もし神がいるとしたら、この世界を最も味わってるのは神だ。(p. 128)

対する主人公とその周りの人びとは、木崎や、運命とでも呼ぶべき何か、つまり強大な力に支配される側の存在。それでも、彼らは足掻く。 

惨めさの中で、世界を笑った連中だ。(p. 86) 

運命なのか、社会なのか、人間なのか、それはわからないけれど、なんらかの強大な力によって規定されたどん底の人生のなかで、足掻き、世界を拒みながら、それでも世界にいたいと思い、い続けようとする人びとの躍動。少し強引かもしれないけれど、そんなふうにまとめてもいい。

 

世界は硬く、強固だった。あらゆる時間は、あらゆるものを固定しながら、しかるべき速度で流れ、僕の背中を押し、ぼくを少しずつどこかに移動させていくように思えた。だが、他人の所有物に手を伸ばす時、その緊張の中で、自分が自由になれるような気がした。(p. 156)

主人公が掏摸をすることの意味。彼は、他者の領域に許可なく踏み込んで、自己と他者の境界を壊す。押し付けられたルールを拒み、誰かが決めた形ではなく、自分のやり方で、世界に手を伸ばそうとする。そんな主人公の最後の足掻きが迎える結末に、希望をみるか、絶望をみるかは、読者の想像に委ねられている。

この小説が思い出させてくれるのは、社会に生きる以上、人は誰しも誰かの運命を部分的であれ支配し、同時に支配されているという事実。主人公が不本意にもある女性とその子供の運命を握ってしまったように、あるいは木崎が主人公の運命を握っているように。自分の人生が何らかの力によって支配されているということを意識してしまったとき、そこからどれだけ逸脱できるだろうか。自分の行動が誰かの明日を何らかの形で支配してしまうことを意識してしまったとき、そのことにどれだけ責任を持てるだろうか。そんなふうに考え出すと、もっと根本的なところからわからなくなってくる。そもそもどこまでが自分が切り開いた人生で、どこまでが誰かの敷いたレールなのか。自分はどれだけ、「自分の」人生を生きられているのか、と。 

 

 

④【セイは厄介で面倒なものですか。】『ふがいない僕は空を見た窪美澄 新潮文庫

 ☆☆☆☆☆

ふがいない僕は空を見た (新潮文庫)

ふがいない僕は空を見た (新潮文庫)

  • 作者:窪 美澄
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2012/09/28
  • メディア: 文庫
 

第8回R-18文学賞、第24回山本周五郎賞受賞作。

 

男と女が抱える、性と生を巡る葛藤を描く連作短編集。

 

たとえば、高校のクラスメートのように、学校や予備校帰りに、どちらかの自宅や県道沿いのモーテル、もしくは屋外の人目のつかない場所などにしけこみ、欲望の赴くまま、セックスの二、三発もきめ、腰まわりにだるさを残したまま、それぞれの自宅に帰り、何食わぬ顔でニュースを見ながら家族とともに夕食を食べる、なんていうのが、このあたりに住むうすらぼんやりしたガキの典型的で健康的なセックスライフとするならば、おれはある時点で、その道を大きく外れてしまったような気がする。(p. 8)

一つ目の短編「ミクマリ」は、つかみの時点ですでに群を抜いている。アニメのコスプレでセックスするように求める人妻のあんず。他のクラスにいる好きな人、松永。二人の間で揺れる、高校生のおれ。

男も女も、やっかいなものを体に抱えて、死ぬまで生きなくちゃいけないと思うと、なんか頭がしびれるようにだるくなった。(p. 22-23)

たった30ページの短編に、性(セックス)という、抗いようのない面倒で厄介なもの、それでいて命と分かち難く結びついたものの、ありようが、見事に描き込まれている。しかも、高校生という、性を見つめ始めてまもない若者の視点で。生まれてくること、生まれてしまうこと、生むことのできないこと、求めてしまうこと、求めてはならないこと。全部ここにある。

 

二つ目の「 世界ヲ覆フ蜘蛛ノ糸」は、子供を作ることに積極的にはなれないまま不妊治療に通う私と、夫・慶一郎さんの話。

がんばれと言われて妊娠できるわけではないのになぁ。(p. 72)

小説を読めば他者のものの考え方に触れることができる、とよくいう。他人の立場に立つ訓練になる、と。そのために読もう、と思ったことはないが、窪美澄さんの物語はみな、そのことを思い出させてくれる気がする。批判するでもなく、問題として読者に問うでもなく、ただ、その人になり、その人を描く。それだけでいいんだ、小説は。そう思わせてくれる。

私はその子のことをうまく愛せないかもしれないけれど、それでもこんな靴下をはく、小さな足の裏を優しく触ってあげたいと思いました。斎藤くんが私に触れてくれたように。(p. 89)

やっと愛された彼女の、静かな叫びに、耳を傾ける。

 

「2035年のオーガズム」は、斉藤くんが好きなあたしと、T大に入り、おかしな宗教にはまったお兄ちゃんの話。明るくはないのに、何故だか清々しい話だ。打って変わって「セイタカアワダチソウの空」は、父が自殺し、母の帰らない家で、バイトをしながら祖母と暮らすぼくの話。物語に出てくる沼みたいに、じっとりと湿った雰囲気の話だ。

自分の将来や、自分の人生の終わりなんて、生まれてから意識したことがなかったのだけれど。(p. 186)

生まれた時からそこにある、沼に足をとられて、それでも誰かと繋がりながら、傷つけたり傷つけられたり、優しくしたり優しくされたりしながら、もがき、生きている人たち。このままこの沼を、抜け出せたなら。そんな期待を誰かが抱かせて、別の誰かがどこまでも追い詰めて。 

 

いきなり出産のシーンから始まる最後の短編「花粉・受粉」は、助産院を経営しながら一人で息子を育てる私の話。

262
自然、自然、自然。ここにやってくるたくさんの産婦さんたちが口にする、自然という言葉を聞くたびに、私はたくさんの言葉を空気とともにのみこむ。彼女たちが口にする自然、という言葉の軽さや弱さに、どうしようもない違和感を抱きながら、私はその気持ちを言葉に表すことができない。乱暴に言うなら、自然に産む覚悟をすることは、自然淘汰されてしまう命の存在をも認めることだ。

助産師の、闘いの話でもある。生まれてくる命との、生まれてこなかった命との。自分のお腹から産まれた命のための、自分の目の前で産まれる命のための。

でも、もし本当に寿命や運命だとして、なんだって子どもたちは、そんなに短い人生を過ごすために、この世に生まれてくるのか、その意味を私にもわかるように教えてほしかった。(p. 281)

他人に悪意を向けるためだけに、用意周到に準備する誰かのことを思った。どうか、そのエネルギーを自分の人生のために向けてくれないか、と。(p. 293)

 

だから、生まれておいで。(p. 306)

一つ目の短編で始まった、性と生をめぐる連作が、見事にクライマックスを迎えた気がした。官能的な描写もあり、そうしたものが苦手な人には向いていないのでは、なんてもう思わない。少し読み飛ばしてでも、最後まで読んでほしいと思った。こんなにも精一杯に生きてる彼らの、希望に満ちた(というよりは希望の光が差すといった程度ではあるけれど)ラストシーンを見届けてほしい、と。 

 

  

⑤【大人になるって、なんですか。】『凶器は壊れた黒の叫び』『夜空の呪いに色はない』『きみの世界に、青が鳴る』河野裕 新潮文庫

 ☆☆☆☆ 

凶器は壊れた黒の叫び (新潮文庫nex)

凶器は壊れた黒の叫び (新潮文庫nex)

  • 作者:河野 裕
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2016/10/28
  • メディア: 文庫
 

 

夜空の呪いに色はない (新潮文庫nex)

夜空の呪いに色はない (新潮文庫nex)

  • 作者:河野 裕
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2018/02/28
  • メディア: 文庫
 

 

きみの世界に、青が鳴る (新潮文庫nex)

きみの世界に、青が鳴る (新潮文庫nex)

  • 作者:河野 裕
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2019/04/26
  • メディア: 文庫
 

階段島シリーズ、後半3作。以前よんだ『凶器は壊れた黒の叫び』もあわせて。

 

「この物語はどうしようもなく、彼女に出会った時から始まる。」

 

シリーズ全6作品を読み終えて、なんだか長い間ずっと誰かと対話をしていた気がする。幸せとは何か、優しさとは、ひとを思うとは、理想とは、諦めとは、成長とは、大人になるとは何か。言葉で、あるいは行動で、階段島で、あるいは「現実」の世界で、ずっと考えをぶつけ合っている登場人物たちの心の声を追いかけて。

 

気に入った言葉たち。

『凶器は壊れた黒の叫び』から。

86
捨てられる私と捨てる私は、痛くても真剣に争わないといけない。その痛みも、私なんだよ。

122
愛は好奇心では読み解けないのだと、一〇〇万回生きた猫は言った。

140
優しさというのは感情よりも、理性から生まれることの方が多いのだと思う。

285
想像もできないくらいに綺麗なものが、たしかに僕たちの頭上に存在する。

『夜空の呪いに色はない』から。

58
信頼という言葉が苦手だ。なんだか暴力的だから。

68
たとえば、ひどく苛立つことだってある。そんなときは相手を罵りたいと思うかもしれない。でも同時に、その感情を抑えつけようという感情もある。どちらも本心だ。

93
朝は夜の向こうにあるものです。正しく大人になるには、ひとつひとつ、誠実に夜を超える必要があります。

181
大抵の大人は、子供たちに、自分ではいけなかったところまで行って欲しいと思っているのよ。

189
もう手に入らないものに傷つけられて、その痛みに慰められることだってある。 

251
足を止める原因を優しさにしちゃいけないし、決められないことを成長と呼んではいけないと思う。 

 『きみの世界に、青が鳴る』から。 

51
僕はもっと純情でいたいんだよ。言葉にならないような愛情で、ただ手を繋いでいたいんだよ。

65
私は、いろんなものを好きになりたいよ。魔法も、魔法がある世界も、言葉も。もっと無責任に、好きになれればいいと思う。 

184
悩み抜いて出した答えを、これが正しいんだって言い張るのが、きっと大人の役割なんでしょう。

202
形もわからないから辞書を引いてもみつからない言葉が、誰の胸の中にもあって、その返事を待ち続けているものだろ。 

もう少しだけ、もう少しだけ、と物語の世界にとどまっていたくなるシリーズだった。

 

 

⑥【目の前の奇蹟を、受け入れる準備はありますか。】『月の満ち欠け』佐藤正午 岩波書店

☆☆☆☆☆ 

月の満ち欠け

月の満ち欠け

 

第157回直木賞受賞作。

 

小山内さん、こっちをよく見て。あなたが混乱しているのは、それは、あたしだってわかってるんだよ。(p. 5) 

この物語は、不可解から始まる。主人公の言動も、向かいに座る母娘の振る舞いも、しっくりこない。特に娘の発言はどこかおかしい。カフェで向かい合う3人の人物の、奇妙な関わり合い。その不可解な場面を宙吊りにしたまま、物語が進んでいく。

君にちかふ阿蘇の煙の絶ゆるとも萬葉集の歌ほろぶとも(p. 129)

ラブストーリーでもあり、同時にミステリーでもある本書からの引用は、取捨選択が難しい。上に引いた歌は、本書を読めばきっと覚えたくなる歌。あらすじも最小限にとどめておこう。主人公が経験し、あるいは誰かから語って聞かされた、いくつか不可解な出来事。その向こうに浮かび上がる、がむしゃらに強い愛が起こした奇蹟の物語。と、ここまで書くのが精いっぱいというところ。本書に直接つながる文章も、ここまで。

 

読み終えて、考えた。現実には有り得ない、おとぎ話のような出来事が起きたとして。それを、なんらかの形で説明のつくこととして、受け入れる準備が自分にはあるだろうか。あってほしいものだ、とも思った。けれど、たとえば目の前に幽霊の類が現れたとして、とっさにそれを現実のものとして受け入れる準備は、正直、ない。現実の自分では無理でも、夢の中の自分ならどうか。できるかもしれない。夢の中では、有り得ないことも当たり前のことのように受け入れてしまうものだから。

同居していた祖父が他界したその月に、死んだはずの祖父が、寝室のある二階から降りてくる夢を見た。生前の、まだ元気だった頃の姿で、夕食の時間に降りてきた、祖父だ。夢の中の僕は、一瞬、祖父が生きている事態を受け入れた。当たり前のように、祖父が夕食を食べに一階へ降りてくることを。しばらくしてふと、昼間の世界の現実に思い至って、あろうことか泣き崩れてしまった。階段の途中に祖父を立たせたまま、顔を見ることもできずに。そうして目覚めた。

亡くなった人が、家族の夢に現れて何かを告げる、「夢枕に立つ」というのは、よく言われることだ。それはおとぎ話のような出来事で、現実世界の常識に照らせば、故人を懐かしむ気持ちやら、故人との記憶やらが要因とされて、結局夢なのだから、という一言で片付けられてしまう。けれどあの時、夢の中にいた僕は、それが本当に祖父なのだと、つまり、亡くなってなお、孫を思って、夢の中に現れてくれた祖父本人に他ならないのだと、気づくことができたのではないか。信じて受け入れることができたのではないか。

そうしたらきっと、死に目に会えなかった悔しさを、吐露することができただろう。最後の日々に、自分でできることも少なくなり、記憶も曖昧になっていく中で、何を考えて過ごしたのか、直接尋ねることができただろう。生きているうちに出来なかった思い出話の数々を、夢の中なのだから、時間も気にせず、し続けることができただろう。

そう考えると、僕はあの時、夢の中で泣き崩れてしまったことを後悔せずにはいられない。

 

なんだか本の感想とはずいぶんかけ離れたところに来てしまったけれど。読み終えて感傷的になった僕は、そういうことをしばらく考えていた。