つきよみ。

月に一度読書記録を書きます。

独りであること - 5月の読書記録

今月はためしに、個人的なことを多めに書いてみようと思います。読書という個人的な体験を、できる限り率直な言葉で書き記すのがこのブログの目的なので。

 

 

①『ロング・グッドバイレイモンド・チャンドラー 村上春樹訳 ハヤカワ・ミステリ文庫

☆☆☆☆☆

 ハードボイルドの傑作。

 

いわく言いがたい魅力を持った男テリー・レノックスを数度救うことになった探偵マーロウは、妻を殺した容疑をかけられ自殺した彼のために、人の情と策謀の絡み合う大きな事件の渦に巻き込まれていく。

 

細部まで、とことん書き込みのされた、それでいて、細部まで、小気味よく皮肉の利いた筆致。ハードボイルドとして名の知れた作品を読むのは記憶にある限り初めてでしたが、人間の振る舞いを限りなく細密に、一切の無駄を排して描き出すことで、ここまで読む人の感情に訴えかけるとは。

 

展開も、まさかもまさか、そのまさかで、予想を鮮やかに裏切っていく構成。しかしそうした謎解き以上に、真相に迫っていくマーロウという人物と、マーロウをひきつけてやまないテリー・レノックスという人物に読者もまた惹きつけられていきます。

 

長い長い事件ともいうべき物語の最後に漂う、静謐な喪失感、切なさとでもいうべきものが、読み終えた後もしばらく胸に残って──。

 

 

②『きらきらひかる江國香織 新潮文庫

☆☆☆☆

 実家にたくさんある江國香織さんの作品の手始めに。

 

「アル中の妻にホモの夫」。それから夫の愛人・紺くん。3人の奇妙な関係は、明滅する夜空の星みたいに、消えそうでいていつまでも消えない。

ふりむいて、お帰りなさい、と言うときの笑子の顔が、僕は心の底から好きだ。笑子は決して、うれしそうにでてきたりしない。僕が帰るなんて夢にも思わなかった、というような、びっくりした顔をして、それからゆっくり微笑むのだ。ああ、思い出した、とでもいうように。僕はとてもほっとする。(p. 30)

以前、ある友人に、人を好きになるとはどういうことか、と尋ねられて、これという答えを返せなかったことがあります。今度会ったら、この本を差し出してみるのもいいかもしれない。難しいことはわからないけれど、ここには「好き」がたくさんあります。

 

「紺くんの話をして」(p. 31)

作中、妻の笑子は夫の睦月に何度かこう聞きます。

好きな人の、好きな人の話を聞くとき、人はどんな気持ちで耳を傾けるんだろう。まして自分から、話を促すようなときには。

 

変わらずにいられるって言ったじゃない。二人ともそうしたいと思っているのに、どうしてそうできないことがあるの。(p. 151)

 気持ちだけで成り立っている関係は不安なもの。肌を合わせたり、子供を持ったり、そういう目に見えることで関係の不確かさを緩和していかなければ、水を抱くような曖昧さからは逃れられない。はたから見れば奇妙に見える関係に、周囲のおせっかいや互いの気遣いが水を差していく。だからといって、不安定であいまいな関係があってはいけないわけじゃない。むしろそういう関係があるっていいじゃないかと、ここに描かれるカップルたちは教えてくれているような気がします。

  

 

③『1R1分34秒』町屋良平 新潮社

☆☆☆☆第160回芥川賞受賞作(2019年)。今はもうなくなった渋谷のブックカフェにて。

 

ボクシングの小説、というものに触れるのは初めてでした。胸をつかれたのは、ボクシングにかける自分の人生を見つめる主人公の言葉。

自分なりに一瞬一瞬を懸命に生きた。それでもそんなものは全ボクサーの当たり前の水準で、どれだけ瞬間の濃度をたかめられたかどうかに、努力と才能がかかっている。(p. 9)

生命力が尽きかける、意識が削がれる一瞬にも一発のパンチを返したい、一秒長くボクサーでいられるなら一生を捧げても構わない、そんな毎秒がつみ重なって命が矛盾するんだ。(p. 102)

 

主人公の一人称で語られていく物語。するすると流れていく彼の意識の流れに読み手が追いついてからは、試合のシーンがリアルに立ち上がってきて、これがまた新鮮な読み心地。自分の人生の、一瞬一瞬を見つめ、反省を繰り返す主人公。自己との葛藤、ウメキチとの鍛錬、映画を撮るのを趣味にする友人との触れ合いを通じて、彼は世界のとらえ方そのものを変えていきます。

 

終盤が圧巻。思考と世界と夢と現実がごちゃ混ぜになっていく過程の描写が強烈で、つい何度も読み返してしまいました。

 

 

④『ファーストラヴ』島本理生 文藝春秋

☆☆☆☆☆

第159回直木賞受賞作(2018年)。友人の勧めで。

 

局アナの面接帰り、女子大生が父親を殺した。彼女やその関係者との面会で浮かび上がってくるのは、主人公・臨床心理士を含め、登場人物一人一人が抱える人生の重み。

環菜の過去をたどっていると、私たちの内包した時間もまた巻き戻される。(p. 67)

誰かの話を聞いて、誰かを知ろうとすることは、聞き手である自分自身のことを知ろうとすることでもあるのだと知りました。

 

この物語は、真実に少しずつ少しずつ声が与えられていく過程。

 

名付けとは、存在を認めること。存在を認められること。(p. 217)

 そう本書にありましたが、ならば描くことも、存在させること。気持ちや本心を言葉にすることも、また。言葉にすることのできなかったことが、向き合ってくれる、受け止めてくれる誰かがそこにいることで、言葉になり、そこに初めて、過去や思いが、存在し始める。 

愛情がなにか分かる? (p. 234)

声をすくい上げる主人公の教える答えは、とても印象的でした。

 

 

⑤『おるもすと』吉田篤弘 講談社

 ☆☆☆☆

広島の本屋で、装幀に惹かれて。ゲストハウスの細長い廊下の向こうにある、小さな本屋でした。

 

墓場の上の崖に立つ家、石炭をえり分ける、「でぶのパン屋」のパンを食べる、僕は一人で暮らす、「こうもり」と呼ばれている。

 

なんだろうこの物語は。心がしんとする。詩を読んでいるみたいだ。静謐で、哀愁さえ漂う、一編の詩。

窓を開けて見おろすと、死んでしまったひとたちの「しるし」が見える。僕は墓のひとつひとつを「しるし」だと思う。ここに生きた、そして死んだ。終わり。覚えておこう。その「しるし」に石をひとつ置いておこう。それが墓だ。 (p. 9)

 語り手が「しるし」と名づける、墓が立ち並ぶ風景は、いろいろなことを思い出させてくれる。幼なじみが寺の子だったものだから、小さなころ、寺の境内でよく遊んだ。鐘つき堂の周りを走り、墓の間を駆け抜けて、鬼ごっこをしたこともある。今思えば罰当たりな話だが、墓に入ることになったら、僕はむしろ、子供たちがあたりを駆け回っていたらいいと思う。自分のいた「しるし」は、そこをだれもが恐れて近寄らなくなれば、存在しないも同じだ。終わりを遠ざけるのではなく、終わりと共存できる生の形が、あってほしいものだと思ってしまう。イギリスを訪れたとき、膝の高さくらいの段差に隔てられて、墓地と公園が隣接していた。公園ではボール遊びをする親子や、バルーンで遊ぶ子どもたち、バスケットボールをする若者たちがいた。なんだかいいなあ、と思ったことを覚えている。

 

「余白」のたっぷりある文章だから、自然、いろいろなところを思考がさまようのかもしれません。

 

本編も好きでしたが、「話のつづきの、そのまたつづき」がすごく好きでした。

たとえば、長いあいだ読まずにいた本を棚の奥からひさしぶりに引き出したとき、その本を買ったときの、雨あがりの街の匂いや人の声までもがよみがえる。本にはきっとそうした力がある。 (p. 102)

そこには著者なりの、紙の本、書店への愛が綴られています。

何かが終わろうとしているのではない。ここから遠ざかろうとしているのは自分たちの方なのである。 (p. 106)

 終わりかけて見えるものから目をそむけてはいけない。紙の本も、書店も、まだ終わっちゃいない。まるで終わっていない。僕が旅先の小さな書店で、この本を手に取り、気に入って購入し、いまこうして読み終えた思いを言葉にしていること、それ自体、紙の本も書店もまだまだ捨てたもんじゃないということの証明ではないでしょうか。

 

 

⑥『二十歳の原点高野悦子 新潮文庫

☆☆☆☆

父の書斎から。昭和54年(1979年)初版本。

 

支配と抵抗のはざまで、派閥と派閥の板挟みで、多くの若者が争いに身を投じていった大学紛争のさなか。自分らしさを通そうと、自分とはいかなるものかを、徹底的に悩みぬいた一人の女子大生がいた。

 

自分を大切にせよ。おまえは不器用だが、物ごとに真面目に真剣に取りくむ。他人を愛しいとおしむ気持は一番強いのではないか。けれども、おまえにも悪いところはある。自己主張が強い、というより我ままだ。他人の心情を察することをしない、己れを律することができない、自尊心が強すぎる、恥ずかしがりやだ。 (p. 6)

自分を見つめ、

大事なことは、「私」がどう感じ、どう考えたかということではないか。 (p. 18)

内省し、

ヒトリデ サビシインダヨ
コノハタチノ タバコヲスイ オサケヲノム ミエッパリノ アマエンボーノ オンナノコハ (p. 90)

時におどけて、

とにかく私は いつも笑っている
悲しいときでも笑っている
恥ずかしいから ごまかして笑うのか
怒るのが てれくさいから笑うのか
いつでも私は おかしくて笑っている
ほんとうに何でもおかしい (p. 190)

詩作に身をゆだね、

アッハッハッハッ。君。失恋とは恋を失うと書くのだぜ。失うべき恋を君は、そのなんとかいう奴との間にもっていたとでもいうのか。 (p. 185)

明るいふりをしながら、

今や何ものも信じない。己れ自身もだ。 (p. 196)

孤独を極めていった彼女。

 

彼女はどうしても、自分のあり方を問い直し続けねばならなかったのだろうか、と思います。徹底的なそれは、取り巻く時代の要請なのか、彼女自身の、内省的この上ない性質のためなのか。まして彼女は、野山と戯れ、誰かに恋をし、酒やたばこに愚痴をこぼす、そんなどこにいてもおかしくはない大学生なのだ。40年経って僕ら学生は、自らを取り巻き、その声を亡き者として、支配の構造の中に貶めてしまう、得体のしれぬ大きなものの存在を、どれくらい意識しているのだろう。

 

表紙にもある、「旅に出よう」に始まる最後の詩が残す余韻──。

 

 

⑦『鴨川ホルモー万城目学 角川文庫

 ☆☆☆☆万城目学さんのデビュー作。友人の勧めで。

 

ひょんなことから(とんだ恋ごころから)、京大1回生の「俺」が籍を置くことになった怪しげなサークル、「京大青竜会」。その正体は、「ホルモー」というこれまた怪しげな伝統を守り抜く、由緒正しき集団だった。

 

「このごろ都にはやるもの、」に始まる裏表紙の紹介文が遊び心満載です。もちろん本編にも渾身のおふざけが詰まっています。「ホルモー」という言葉だけでなく、

ぐああいっぎうえぇ (p. 82)

ふぎゅいっぱぐぁ (p. 84)

 などなど、ふざけた表現・設定・出来事が次から次へと現れます。物語はおふざけでも、そこに生きる登場人物たちは恋にも友情にもホルモーにも真剣勝負。

勝利の口づけを与えんと、我々の両頬に手をかけ、その嫋やかな吐息を間近に感じさせていたにもかかわらず、突然ぷいとそっぽを向いてしまったのだ。 (p. 139)

 気取った、というべきか、すかした、というべきか。とにかく持って回った、ちょっぴりおかしな調子の語りが、物語をぐいぐい進めていく、これがまたいい。

 

「ホルモー」の戦闘や恋愛・友情の青春劇はもちろん面白いのですが、「ホルモー」とそれを取り巻く奇怪なものどもに僕は一番惹きつけられました。得体のしれぬもの、神秘的なもの、戦慄させども目には定かに見えぬもの、そうしたものが古来から綿々と受け継がれ続けているということに、どうして人はこんなにもひきつけられるのだろう。これは万城目学さんの人気小説『プリンセス・トヨトミ』(文春文庫)にもつながっていることのように思います。

どうして──俺たちは今もホルモーなんてものを、やっているんでしょう。 (p. 287)

綿々と受け継がれ続けているなにかに対する興奮、あこがれ、愛着、郷愁のようなものを、きっと誰もが持っていて、そこを器用にくすぐる猫じゃらしが、万城目学さんの作品なのかもしれないな、と。